Column

2000/05/31

70年代の偶然

謎解きの手がかりとして70年からどうやって日本が死亡事故を減らしたのか考えてみよう。1970年というと私が二輪の免許をとった年である。残念ながらオートバイは危険と言うことで泣きじゃくる母親の説得に従って4輪の免許を取るまでバイクには乗らなかった。(陰で友人のバイクを乗っていたが)私の記憶では何人かの友人はバイクの事故で命を落とした。

初めて4輪に乗ったのは1972年、クルマとは無縁の家で育ったので、我が家では全員クルマには無知であった。私もクルマには興味がなく、大学に通う目的でクルマを買った。中古で良いと思っていたが、心配性の母親は新車のほうが安全だからできるだけ大きいものを買えとせがんだ。

運良く私は18歳の時からラリーを知りすぐにモータースポーツの世界に入り込んだ。静まり返る山岳路をエンジンの唸り音を上げながら疾走することは痛快であった。当時、シートベルトは2点式であったが、私は率先して4点式ベルトを取り付けた。それは安全だからという理由ではなく、石原裕次郎主演の「栄光の5000Km」の映画を見て、4点式ベルトがかっこいいと感じたからだ。ところで、母がなぜ執拗に私がクルマに乗ることを心配したかは理由がある。私は小学校低学年の時に自宅前の国道246池尻の交差点で大きな事故に遭遇した。青信号を確認して自転車でわたったところ、同じく青信号を確認して左折してきた大型トラックに横断歩道上で引かれた。 すぐに気を失った。運転手はわずかなショックさえも感じないで、そのまま数百メートル走り去った。通行人の騒ぎでトラックの運転手は異変を感じ停車した。トラックのナンバープレートにシャツがひっかかりボクは背中と腕に大きな擦過傷をおっただけで済んだのである。シャツ一枚がボクの命を救ったのだる。横断歩道を渡ったのに事故にあったことを子供ながら悔しんだ。「自分は悪くないと」。

クルマ社会でのサバイバルは「自分が良い、悪い」ではなく、クルマと当たったらどんな人間でも負けてしまうこと。青信号だろうが、歩道だろうが、クルマが飛び込んでこない確証はない。たとえ、空からクルマが振ってきても、それを予期できないのは人間の運命なのだ。ルールを守っていてもそれが何の役に立たないことがある。「運が悪かった」という「情」であきらめるのではなく、サバイバルできる強さ、したたかさを学ぶべきだ。ボクの運命はそのとき、まるでトランプのカードのように決められた。

母は奇跡が起きたと今でも信じている。しかし母の犯した過ちは、「青信号で渡れば安全である」とボクに教えたことだ。実際はそんな単純なことではサバイバルできなかったのである。私はその教訓から、多くを学び自分の子供達に教えた。「青でも右左のクルマを確認しなさい。なかには赤信号を無視して走ってくるクルマもある。首都高速の大きな柱があるから、右折車は横断歩道が見えにくい。雨の日と晴れの日ではクルマが止まれる距離はずいぶんと変わる。ウィンドウも見えにくいしね。おまえ達は12歳になるまで後席だ。そして必ず、ベルトをしなさい。それまでエンジンは絶対にかけないからな!」この話と70年代に日本が急速に事故を低減させたことは無 関係ではない。

ここではユーザーのクルマに対する期待と、実際の自動車メーカーの取り組みの因果関係を考えてみよう。もちろん70年の事故死者半減はそれ以外にも様々な要素があったと思うがステアリングを握るドライバーの立場とクルマを作るメーカーの立場にたって考えてみよう。さて、クルマがない家庭で育った私であったが、すでに母は交通事故が大きな社会問題となり、毎日多くの人名が失われている、という危機感を持っていた。奇跡的に生還した我が子の事故から学んでいた。「青信号で渡れば安全である」とマニュアル的に教えたことが、かえって自分の息子を危険な目に遭わせたことを。私がクルマに乗るようになってから「青信号だって歩道に子供がいるかもしれないから注意するのよ!」という感覚を持っていた。母はクルマには無知であるが、クルマが危ないものだという感覚だけは衰えていなかった。「危険だからこそ安全は自分で守るもの」という意識であった。

私がラリーやレースに出かけるときは、「無茶してはだめよ!」と忠告し、学校に出かけるときは「歩行者に気をつけるのよ!」と忠告した。クルマが「刃物にも棺桶にも」なりえることを知っていた。母の危機管理は私の奇跡の生還から学んだものであった。クルマに無知でも危険を意識することができるのである。「危険認識」と「安全認識」この言葉のニュアンスの違いに気付いてほしい。私は前者のほうで育てられた。事故からの学んだ唯一のことであった。ここがとても肝心なことだ。当時は新聞とTVとラジオくらいしかメディアが発達していないにも関わらず、毎日のように交通事故の悲惨な報道が行われていたように記憶している。母は自分の家族が事故に遭遇するかもしれないという危機意識があったのだ。この意識がとても重要なのである。母はクルマに対してはまったくの「無知」であったが、 交通事故に対する危機感はあった。 このような危機意識が当時の日本人の中にあったようだ。

この意識が僅か9年で死亡者数を半減させた原動力となったのである。年間16000人の命が失われるという最悪の事態は、クルマのハードという安全性でもなく、安全基準でもなく、結局人々の心の警報(危険認識)によって脱することができたのである。

この事故低減に対して、当時の自動車メーカーはどのように取り組んでいたのだろうか。ESVというプログラムがアメリカの行政指導によって世界的なレベルで始まっていた。日本のメーカーもこの会議には参加していたが、実際のクルマに安全性能が織り込まれるのは80年だからだ。クルマの安全性よりももっと重大なことが起こっていた。カリフォルニアと日本で始まった排気ガス対策に追われ安全どころではなかったというのが正直なところであろう。

一方、現代のクルマは当時のもの比べものにならないくらい予防・衝突安全性が進歩した。さらに安全基準だって、緊急医療だって、格段に進歩したのだ。しかし人々の心の中にある事故に対する危機意識は完全に後退してしまったようだ。クルマが安全でないときには人々はクルマの危険性に敏感になり、逆に安全性が高まると人々の危機意識が衰退する。このジレンマが70〜90年代に起きたクルマというハードウェア技術と人間の関係なのである。ボーイングとエアバスの安全に対する考え方の違いも、このような人間と機械のインタフェースの考え方の違いなのである。

現代のクルマ社会の気分は「クルマそのものが安全になった」という安堵感だ。だからこそ、あきらめとも言える言葉、「事故に遭ったら運が悪い」。あるいは、恐ろしいまでの楽観主義「私は事故に遭わない」。また、いざというときの「保険があれば安心」。という意識なのである。現在やく10000万人の人名がクルマが原因で死亡している。 70年代とは比べものにならない安全な自動車を手に入れ、 しかもクルマの安全性の情報公開も進み、法基準もそれなりに整備されてきたにも関わらず、死亡率は減らないのである。

ある人は現在の事故の原因を次のように述べる。

「ナビゲーションとか携帯電話が危険だ」
「クルマが急速に増加し、道路環境や交通システムが追いついていないからだ」
「クルマのパワーが上がったからだ。」
「若い連中がクルマをすっ飛ばしているからだ」
「緊急医療が遅れているからだ」
「チャイルド・レストレイン(シート)の普及が遅れているからだ」

どれも正しいが、本質はついていない。

70年だって若い連中はクルマをすっ飛ばしていたし、暴走族黄金期でもあった。クルマの改造だって自由自在にできた時代でもあったし、3点式シートベルトすら珍しかった時代だ。アメリカのクルマ60年代黄金時代が日本に遅れてやってきたのが、70年代であった。だからこの時代はそれなりにクルマが好きな人が多かった。私が言いたいのは、70年代の事故死者数半減の原動力となったのは、クルマ無知であった母が抱いていた事故にたいする危機感なのである。 それは母親としての本能にも近いものだと確信している。

1970年から1979年までの9年間に事故死者数が8000人と半減した。ここから再び事故死者は増加する。それでは70年代は、一体どんな自動車産業はどのような状況であったのだろうか。先に述べた良ように、自動車メーカーはカリフォルニアを震源地とする排気ガス規制の対応で必死であった。それがすぎると第一次オイルショック、そしてプラザ合意による急速な円高。国際化が始まった次期でもあるが、自動車産業の目は国内から海外へ向けられるようになった。このとき自動車メーカーは国内の安全問題など全く視野になかった。それよりもクルマ輸出立国としての基盤を築くべく、海外の安全基準だけに焦点を当てていた。 1979年に、死亡者数が半減したことで行政も自動車メーカーも一応胸をなで下ろした。

80年代に入るといわゆるバブルの効果でますます産業は元気になるが、目を向ける先は太平洋の向こうであった。現実に起きている国内の事故死者数が再び増加したことなど、だれも気にする人はいなかった。「安全ではクルマ売れない」という悲しい法則が日本メーカーのやる気をそいだ。80年代中盤に、自動車メーカーは馬力競争に突入した。200馬力を越え、時速200Kmの壁を越えることに終演した。排気ガス規制で遅れをとったエンジンのパワーを取り戻すことに取り憑かれた。私自身も200馬力以下のクルマに興味をなくし、モアパワー、モアスピードを叫んでいた。そしてバブルが崩壊し、クルマが売れなくなった。