Column

2000/05/31

リアリティの無くしたスピードがもたらすもの

新幹線は最近、速度を高め始めた。はじめはひかりが200Km/h、のぞみで250Km/h、最近では270Km/hという速度を実現してきた。さらに、山梨県にある実験路線では、JRのリニアモーターカーがそれまでの世界記録を持っていたフランスのTGVの515Km/hを上回り、550Km/hを記録したと報じられた。20世紀のクルマ社会はスピードを高めることに技術のすべてを費やしてきたといっても過言ではないだろう。

80年代は日本車で200キロがでるクルマは存在しなかった。しかしその影響はクルマだけにとどまることを知らず、情報通信までもがスピードを競うようになった。パソコンの演算スピード示すコンピューターの心臓部であるCPUの速度が飛躍的に向上。xxxMHzと記載されるカタログ数値がここ10年で10倍の速度になった。パソコン本体の速度が向上すると、今度はそれにアクセスする周辺機器や情報を主に保管しておく磁気の記憶媒体の速度まで高めることになった。人間はそれでも満足せずコンピューター同士のネットワークの速度も向上するべく欲望は募っていった。インターネットでは情報通信そのもののデータ転送速度を向上させようと様々な技術が登場している。このように速度とは「人間の欲望のバロメーター」になってしまったことが20世紀の特徴であると思った。

クルマも公共交通も情報通信もすべてが、「モア・スピード!」を叫んでいるのである。スピードというリアリティの現象は、ある種のイルージョン(錯覚)を抱かせる。クルマがはしているのかあるは周囲の景色が後方に動いているのかイリュージョンを抱くことがないだろうか。 新幹線から見る景色は完全に僕の目にはそう映る。窓から見える富士山がまるで後ろ向きに動いているのである。振動もない。快適な座席でパソコンに没頭、ふと窓の外を見たときにボクはそう思う。クルマもやがてテクノロジーの進歩によって道路が動いていると錯覚するかもしれない。私は15年位前に短い夏のアラスカへでかけた。氷河を前にした湖でわずかな夏を楽しむかのように、犬がしっぽを振っている。私はこのとき瞬間的に「犬のしっぽが地球を動かしている」と感じた。なぜだかしらないがそう思った。

100億年前の氷河を目の前にし、犬のしっぽが古代から続く氷河を動かしている。そんなイリュージョンから目を覚ますのに時間がかかった。テクノロジーによる知覚の変貌は様々なところで観察できる。リアリティとイリュージョンの境目に気がつかなくなる日が、やがて到来するのだろうか。このイリュージョンが実は現代の様々な事故に対する危機感を麻痺させているのではないだろうか。

70年代のクルマはステアリングを握ると、それなりに緊張感があった。毎日家を出るとき、クルマに無知な母は、本能で「スピードだしちゃだめよ!」と私に告げた。

「クルマ社会の安全は決して安全なクルマを手に入れることで達成できるものではなく、人とクルマと社会がどうやってうまくつきあっていけるか、そのしくみとルールと秩序を作り上げることが大切なのである。」8:27 PMこの文章は私自身がすでに雑誌に寄稿したものであるが、ずいぶん杓子定規な論点だ。現代のクルマ社会に欠けているものがあるとしたら、それは70年代の人々が抱いていた危機感なのである。クルマが好きだからこそ、クルマを負の被告席に座らせないためにも、「安全という言葉の持つ意味が、知らないうちに危機感を麻痺させることになっている」ことをあえて警告したいのだ。「無知」でもいい。危機感さえあれば命を落とさずにすむのだ。